言い伝えによれば、加藤源十朗という陶工が江戸時代に江名子村で窯をひらき、それが縁で村人にバンドリの製法を伝授した、といわれている。
 
ここで、筆者の疑問 
◎疑問その1
なんで陶工が本職とはまったく関係のないわら細工つくりを教えることができたのか?
◎疑問その2
しかも普通の蓑より手が込んでて複雑なつくりのバンドリ(少なくとも筆者はマスターできなかった)の製法は秘法といってもいいくらいなのに、なぜ加藤源十朗はおしげもなく村人たちに教えてやったのか?

この人物は、筆者にとって長年の疑問であり、また彼のことを知ろうにも詳しい文献が見つからない。もしこの人物についてご存知の方がありましたら、筆者に教えてほしい。

話がそれてしまった。とにかく江戸時代からずっと、昭和30年代ころまで江名子村でバンドリがさかんにつくられ、24日市ではジャンジャン売れていったそうだ。 バンドリが日常品だったころ、こんなキャッチフレーズがあった。「三枝田むしろに江名子バンドリ、下林わらじに新宮なわ」これは、むしろを買うなら三枝田村産が一番いい、バンドリなら江名子村が一番、というふうにそれぞれ主産地でつくられたものが一番いい、ということを言い表している。地名がブランド名になっていて、だからこそ、その土地のものが高く売れていった。

そういう訳で、バンドリは江名子村の目玉商品だったから、その製法は門外不出のような面もあったらしい。飛騨生まれでもない筆者が、保存会のじいちゃんたちにバンドリつくりを教わっているという話を地元の人たちにしたことがある。「江名子村の大事な技術をよそ者に教えるわけがないっ!」とか「30年くらい前だったら、よそ者のあんたが教わるなんてまず無理だったろうね。今は後継者がいないから、江名子のお年よりも喜んで教えてくれるんだろうけど」とさんざんいわれたことがある。

だが、江名子村から他の村へ嫁いでいった女たちの何人かは、嫁ぎ先でほそぼそとバンドリをつくっていたようだ。江名子村以外の農家でも、自分たちが子供のころ、バンドリ編みにかかせない”こも板”が納屋に置いてあった、と語るお年寄りの話を2.3聞いたことがある。

しかし、他村でつくられたバンドリは、どんなにきれいに編み上げても江名子村より安く買い叩かれたようだ。逆の言い方をすれば、江名子村のバンドリは、たとえばそれが少々雑なつくりであっても、江名子というだけで高く売れていた、という。
だからなのか、先ほどのわら民具ブランド賛美フレーズとともに、主産地を皮肉るこんなフレーズも同時に存在した。「三枝田むしろはとちがもり、江名子バンドリりゃ雨がもる」 バンドリ保存会のじいちゃんに教えてもらった言葉である。
誤解のないように言っておくが、江名子村にはバンドリを雑に作る家もあれば、時間をかけて丁寧に美しく編み上げる家も何軒かあった。「○○家のバンドリは村一番」と江名子中から名人扱いされる家だってあったのだ。江名子ではどこの農家でもバンドリを作っていたため、お互い競争意識もあっただろう。また、その家その家で形や編み方も微妙に違っていた。興味のある方は飛騨のわら博士、谷口いわお氏著「飛騨のわら古民具 生産用具編」で、いろいろなバンドリの写真が載っているので、見てみてほしい。高山市図書館にあるかもしれないね。

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