中心部から順々に円形状に植えていくが、最初は円が小さいため、一人で植え、円が大きくなるにしたがって一人から二人、二人から三人と水田に入っていき、みんなで植えていく。田植えや稲刈りができるのは車田保存協力会のメンバーのみ。そろいの法被にすげがさ姿で車田固有の田植え歌を歌いながら、植えていく。

 観光パンフレットや車田のそばの立て札を読むと、このような車田は日本全国にあったらしいが、今では高山市の松ノ木町と佐渡島両津の二つしか現存していない。飛騨の里にも車田はあるが、あれは観光客へのデモンストレーション用のレプリカ(再現)である。それゆえ、松ノ木町の車田は高山氏の重要無形文化財に指定されている。

 車田に関する記録は、高山城主 金森重頼(1650年没)の詠んだ和歌がもっとも古いとされている。

 「見るもうし(憂し) 植えるもくるし(苦し) 車田の
              めぐりめぐりて早苗とるかな」

 また、江戸時代に飛騨地方に在任した代官の手による、飛騨の習俗を記録した「飛州誌」にも車田に関する記述がある。だが、車田がいつごろ始まったのかを正確に記録した書物はなく、おそらく400年〜500年くらいまえから松ノ木町の車田は守り継がれてきたのではないかと云われている。

 車田でとれたお米は伊勢神宮へ奉納していたようだ。神様へのささげ物なので、肥料に屎尿や糞など下肥は一切使わない。ボタ草、わら、穀物殻などを肥料にしている。そうやって取れたお米は、今では地元に奉納するための花餅や鏡餅の材料になる。筆者はある年の冬に飛騨の里に行って花餅作りを体験したが、その花餅のもちは車田からとれたお米で作ったと聞かされた。今も昔も、車田でとれたお米は日常米としてではなく、神様に奉納するための儀式に使われている。

 毎年、車田の田植えや稲刈りの季節になると、観光客や地元の人間が松ノ木町や飛騨の里に見学にやってくる。特に、松ノ木町の車田は高山駅からの交通の便もそれほどよくないのに、熱心な観光客が朝早くからやってきて、ビデオカメラをまわしたり、三脚をたててしきりに田植え風景を写真におさめている。5月の中旬くらいに車田の田植えが行われている。もし機会があるなら、ほかの地方では見られない、古式にのっとっためずらしい車田の田植えをぜひその目で一度見ていただきたい。

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