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松ノ木車田

車田の画像が見られます
「車田」とはその名のとおり、円形の田んぼである。それゆえ、田植えのやり方も普通の方形状の田んぼとは違って、車田の中心部から外円へと同心円状に苗を植えていく。(当然、稲刈りは外円から円形状に刈りながら中心部へ向かっていく)
写真を見てもらうとわかるのだが、神主さんを呼んでおはらいをしてもらってから、田植えにとりかかる。まず、田んぼの真ん中に杭を打ち、そこから放射状に7本の線を出し、一株の苗を3本づつとして1本の線に5株を円形に植える。日本でも珍しい田植えのやり方で「7・5・3の田植え」とも呼ばれている。
面白い続きはこちらで!(2005.4.24/爆裂小姐)

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江名子ばんどり

初めて「江名子バンドリ」を耳にする人は誰でも疑問に思うはず。「江名子バンドリって、何だ?」ここ飛騨では、わらで作った雨具のことを「バンドリ」という。バンドリって、もともと飛騨弁で「むささび」を指す言葉だった。「晩に飛ぶ鳥(実際は鳥じゃなく、哺乳類)」に見えたから、昔の飛騨人はむささびのことをバンドリとよんでいた。 そして、バンドリを身につけた姿がむささびに似ている、ということで、一般には蓑(みの)といわれるものが、ここ飛騨ではバンドリといわれるようになった。
<閑話休題>
  飛騨地方で「みの」といえば、荷なわでものを背負うとき、
  背中が痛くないように当てる道具を「みの」とよんだ。
        出典 :飛騨のわら古民具「生産道具編」谷口いわお著
バンドリに枕詞のようにくっついてる「江名子」。これは高山市郊外の一地区で、ここがバンドリの主産地だったため地名つきでよばれるようになった。これはほかの飛騨無形文化財民具にもいえることで、小屋名しょうけや有道しゃくしなど、飛騨の民具は主産地の地名つきでよばれるのが普通なのだ。
面白い続きはこちらで!(2005.4.24/爆裂小姐)

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新高山市誕生!


新高山市が2005年2月1日に施行されました。
高山市の人口は1.5倍の97,023人に、面積は15.6倍の2179.35平方キロで東京都とほぼ同じ面積となり【日本一広い市】になりました。
この日、飛騨は【高山市合併】関連式典が行われました。
文化会館では【市長さんを交えての式典】この日【吹雪の中】を市内や郡部の合併町村【中学3年生=1,000人】が集合し、大合唱で開演、会場を盛り立てました。
イベント会場となった駅西駐車場は「吹雪」【立っているだけでもやっと】の悪天候!せっかく写した写真も【吹雪】で画像がはっきりしない?! スタッフ達も悪戦苦闘!!でした。各町村の【テント】では、【味自慢】美味しい手作りの物を皆に振る舞い長い列が出来ていました。 (2005.2.1/zen3媽媽)

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飛騨の【花餅】

紅葉の終わった飛騨は、山の木々も冬の色に変わります。葉は枯れて落ち葉となり残るは「枯れ木」です。【枯れ木】に冬の風物【雪景色】が重なるころ、この飛騨に【花】の変わりに現れるのが、【花餅】と呼ばれるものです。
村の花餅作りの方にお聞きしましたら、秋に山へ【草刈り】に入った時、あらかじめ「眼」を付けておいた、【かすい・柳・もみじの木】を2年がかりで【刈り込み】(刈った所から出てきた新芽や枝)の株を持ち帰り使ったとの事でした。
つきたての餅を(紅白に色付けした餅)一枝ごとに巻き付けたもの … これが【花餅】と言われるものです。巻かれた餅はその昔「油で揚げてあられにして食べた」とか。
花が雪に埋もれた飛騨では「見て楽しむ」生活の知恵なのです。
近年は2年がかりの株ものは少なく高値になり、【柳の木枝】に巻き付けたものや、台の上にくっ付けて花枝にしたものなどは手軽に手にはいるようになりました。 (2005.1.1/zen3媽媽)

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飛騨の仏事

飛騨の仏事 (基本的に浄土真宗:在家・檀家が多く仏祭が色濃く残る為に行なわれる)
11月に入ると飛騨路は、【お七昼夜=おひっちやさま】と【報恩講=ほうおんこうさま】なるものが取り行なわれる。

【お七昼夜様】=おひちやさま(親鸞聖人の命日前の七日間法要)*現在は三日間
僧俗一体の一大仏事の姿として残ったものらしいが世相変化とお詣で衆が減ったため、どの寺も様子が さびしくなってきたと言う。
では、昔はどうか?
「おひっちやさま」が近づくと、各家々でお仏壇の掃除や仏具みがきがあったりおひっちや餅の準備が行なわれた。一方でお御堂の掃除や飾りつけなど荘厳の仕事が進められたと言う。
『詣(まい)らっしゃいよー』の呼び声を合図に家々総出の参詣人の列ができて、病人と馬牛だけが留守番をすると言う法悦の一週間がつづいたそうな。
では、現在はどうか?・・・近くの村に聞いたところ。
各寺の法要によりことなるとの事(一般に二日間位に短縮されている)
各説法を聞き、持ち寄った「大根汁を皆でいただく」=【お斉(とき)に付く】(仏様と一緒に食事する)各自が「大根汁を家で煮て(味噌汁にする)*但し味は大根+味噌だけで、調味料は無しダシも使わず寺に持ち寄る。それを、【大鍋に移し、半日よく煮る】大根の形が無くなる位に・・・これは、お参りに来た人達に振舞われる。地元の風習になっている。

【報恩講様】=ほんこさま(親鸞聖人の御恩に報謝する仏事)
この時期は農家の農閑期、献立に使う野菜は春からどの家も力を入れて作ったと言う。
人参・ごぼう・長いも・南瓜・はたいもをほんこさま用として保存。こけ類や山の実や山菜もすべてこの時のために保存された。 そんなわけで、野菜作りや山菜採りは人々の心に張り合いとなり【ほんこさま】へとつながった。
*【お膳】
春からの精進によって生まれたもので、料理形式としては、【精進料理】をさす。
その形の流れが残る 「宗和膳」「坊様膳」がある。
*【お勤行】
読経・お説教が行なわれる。
昔は各家の人数(子供を何人連れてきたか)とか、何回出たかが話題になった。
春から取れた「野菜+山菜」を保存して11月に「お供え物」として出した。
ほうばの葉にご飯を包んだものを持ち帰る時にほうばの葉から、ご飯が落ちてなぁ〜・・と思い出話しに花が咲く我が家のじぃ様でした。
(2004.12/zen3媽媽)

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村祭り



村祭りとは 【五穀豊穣】を感謝するもの。
高山から車で15分「清見村」に伝わる村祭りです。毎年、8月の終わり頃村の男衆は毎晩 神社や公民館に集まります。皆さん各自仕事が終わってから集まるので・・夜遅くまで練習です。
こうなると、伝承を伝える方もされる方も・・【忍耐】です。(*練習は男衆だけが 集まります)
【獅子舞】・【かんかこ(鐘つき)】・【笛・太鼓】・【伊勢神楽】など、それぞれに分かれての練習
【かんかこ】では、中学生男子から大人に混じっての練習。それなりのかわいい鐘を持たせてもらい上下に身体を動かす動作・・大人になると、大きな鐘(持つだけで重い)を持って舞い踊るのです。単調な動作ですが、リズムが狂うととんでもない事に・・・一人はずした音は目立つので恥ずかしい?!
【伊勢神楽】は明治40年に久々野町から伝授されたもの。男が女舞いを踊る・・珍しい舞いです。
祭り当日は雨になり、村回りの「獅子舞」も各、公民館前になりましたが夜祭りは何とか神様がお許し下された。祭り行列が静かに神社に入り、神殿前で舞いが披露され、神社役員関係者は無事終了に胸をなで下ろし、夜祭りの宴は静かに幕を下ろしました。
9月初めから、各部落を回った「祭り行事」。途中【台風】が飛騨をかすめながら通過すると言う・・・(こんな年も珍しい!)とにかく無事に行えた事に感謝です。

【伊勢神楽】・・・清見村の村指定無形文化財(夜祭の写真が真っ黒でしたので、中日新聞参考)身体の大きな男の人が【女獅子】を踊る。=内股・すり足が何とも言えない踊りです。この【女獅子】は踊りに合わせて、音楽が流れるので「笛」の担当の人は自分も踊っている感じでしょうか?反対に『獅子舞い』は2人一組になり上下右左に飛跳ねる動きは「笛・太鼓」の音に釣られて踊る様・・・とか。音楽に合わせて踊る『獅子舞』動きも大きく、活発です。 同じ【獅子舞】でも、音楽の合わせ方が違う事を教えていただきました。また、これら「祭り」の中に登場する、
【鬼】=赤鬼・青鬼(緑鬼)・・・「厄払い」をする
【おかめ】=女の人・・・福の神を呼ぶ
【ひょとこ】=男の人・・・『火の男』=ひおとこ(ひょっとこ)顔は不細工だが、「火事」を見つけて自分のおしっこで「火を消した」とか?それ以来『火消し男』と称され【消防】寺・家の守り神?!
このように「祭り」に必要な登場人物が揃い、毎年にぎやかに行われます。
(2004.9/zen3媽媽)

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初めに【飛騨の国】あり

この地に人が住み始めたのはいつ頃だろう?
弥生時代・・人々は狩猟生活から遂次農耕生活に移っていった。
飛騨のように山地農耕は『畑作』が主で長い期間続けられていた。
【畑】と言う文字は、火+田であり「ヒタ」が「ホタ」となり「ハタ」に転化したので、飛騨の「ヒダ」は畑作業から起こった地名で、それがいつか国名になったとされるのが自然に考えられるらしい。
発音に当てはめた【ヒダ】(字義そのものには意味はない)の漢字。
1、斐陀
2、斐太
3、比太
4、飛騨=日本書記
5、飛駄=国名風土記
【ヒダ】の地名・国名は文字以前に存在した?!
続日本記(大宝2年4月・702年)の中にある文
『斐陀国から朝廷へ神馬を献上した、天皇は之を瑞祥とされ盗人を除いて天下に大赦を布告し斐陀は国司以下さかん以上の役人及び出瑞郡の大領は位一階を進め禄を下賜された。又斐陀の百姓には、三年間税を免ぜられた。神馬を献上した「僧隆観」は父幸甚(新羅僧行心)と共に罪があって飛騨へ配流されていたが、都へ帰る事を許された。』
飛騨はそれまで、斐陀・斐太と書いたが以後【飛騨】と書くようになったといわれる。飛=飛ぶ騨=野馬と訓み駿馬の意
又、属説に
1、山麓のヒダ
2、日高見のクニのヒダ
3、ヒグマのクニのヒダ
4、ヒナが転化してヒダ
5、昔から交通・運輸に主として馬を使用したから・・?

この他にも昔のお話は続きます。ぜひ時間があれば、「飛騨」の歴史を見つけて下さい。

(#^−^#)/zen3媽媽は「清見村史・風土記」を参考にしました。
(2004.9/zen3媽媽)

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